こうして手塚治虫さんがトキワ荘にお別れにわざわざお出でになったのが1982年12月1日の午後だった。これには、2説あつて、Y賣のK出さんは、「夜当時執筆中だった『陽だまりの樹』を描き終えてから来た」という。
▲ネットからの引用です。
私は意外と早かったような気がしている。というのもアパートの中は解体途中で、電気はつかなかったが、2階に上がるのに苦労しなかったと思う。つまり夜だったら、例えライトがあったとしても、上がるのは難しく記憶に残るはずだ。確かに薄暗かったが、それは冬の午後の電気のないアパートの中のことだったからで、K出さんの記憶では、夜に彼が持参したライトを点けたらしいのだが、私には覚えがない。
▲ネットからの引用です。
手塚さんは、自分の使っていた部屋がここだと言ったが、随分乱雑になっていたので、時事のN川さんが、「こちらが綺麗な部屋で•••」とか言って、隣だったか別の部屋に移ったのか、そのまま手塚さんの部屋だったのか、ハッキリしないが、ここで記念の件のサインをしてもらった。
▲ネットからの引用です。
ただ手塚さんが見えた時は、すでに天井板は剥がして持っていたと思う。手塚さんの見ている前で、剥がした記憶はない。これには訳があって、中川さんは知っていたらしいが、実は手塚さんのサインは最初から私が個人用に、つまり「小俣一平さんへ」と書いて貰うつもりで、ポケットに『❓』のマークが入った太字のマジックを持参していたのだ。
▲ネットからの引用です。
そこで天井板に書いてもらいたくて、当時70キロ以上あった私は、天井に飛びつけず、一番若い入社2年目の中川さんが身軽だろうと、実際にすごくスリムで長髪の若者だったので、彼に頼んだ。
▲Y賣新聞 K出重幸さん
▲右側 J事通信 N川和之さん
▲S経新聞のちT京新聞 A藤徹さん
彼は一回は畳の上から天井に飛びついたが届かず、押入れの中段の仕切りの上に乗って、そこから斜め上にジャンプして剥がしてくれた。その天井板を事前に用意したところで、手塚さんが来られたと思う。そこで「記念にサインをお願いします」と板を差し出したら、サラサラと『リボンの騎士』と自分の似顔絵を描いて下さった。名前のサインだけを書いてもらおうと思っていた私はびっくり‼️
▲『板絵』の裏に書かれた由来
すると横から誰かが、いや気後れした私が言ったのかもしれない。「『5方面記者クラブの皆さんへ』と書いて下さい」とお願いした。すると手塚さんは、「5方面記者クラブとは何ですか❓」と訊かれたので、みんなでワイワイ説明した様に覚えている。
▲右端がK同通信のF島尚文さん
当時、手塚さんは超人気の漫画家ではあったが、今のように『漫画の神様』とは、私は全く思っていなかった。当時の私は『スポーツマン金太郎』や『スポーツマン佐助』『暗闇五段』を描いた寺田ヒロヲさんのファンだった。
画風も横山光輝さん、ちばてつやさんに惹かれていたし、ストーリー性で云えば、白土三平さんの『カムイ伝』つげ義春さんの『李さん一家』のようなものが贔屓だった。
だから私がサインをお願いしょうと思ったのは、有名漫画家の名前のサインが欲しいという、今思うと情けない極めて浅薄な動機だった。今や『漫画の神様』だけに、私の無知、認識のなさは漫画界の不敬罪に当たりそうだな。